行列とイギリス流の生き方 |
2006年のSouthfields側行列の先頭 |
砂漠旅行を共にしたフランスの青年との話の中で、自国の偉大な発明は何かという話題になった。私は「日本の発明ではテレビかな」と答えて、フランス青年からは「映画の発明」といった答えを期待した。ところが青年の答えは、「フランスの最も偉大な発明は人権」と、私が考えもしなかった答だった。フランス革命の人権宣言。私は若いフランス人の答えに驚き、感心した。 もしイギリスの青年がいたら何と答えただろうか。「蒸気機関の発明」ではなく、「行列の発明」と答えたかもしれないと思う。英国では、駅の窓口、店の売り場など至る所で整然とした行列が見られる。日本人の行列も海外から礼儀正しいと称賛されることが多いが、イギリス人の行列は次元が異なるように思える。われわれ日本人にとって行列は、目的を達成するために仕方なく我慢して辛抱強く並ぶものだ。しかし、20年来ウィンブルドンの行列に並んで感じるのは、行列はイギリス人の生き方に通じているものだと言う点だ。 私は東京オリンピックの直後に中学生となったが、国語の教科書に笠信太郎の「ものの考え方」の抜粋があった。「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走り出す。そしてスペイン人は走ってしまった後で考える」と言うもので、戦後の日本人はイギリス人に学ぶべきだとする内容だった。後で知ったが、このくだりはスペイン市民戦争後のフランコ独裁政権下でイギリスに亡命した外交官マドリヤーガの言葉の引用とのことだ。 考えた後で走り出すフランス人とはフランス革命のことを指すが、その後ナポレオンの独裁を生んだ。歩きながら考えるイギリス人の生き方は、一気に物事を変えることはないが一歩ずつ着実に歩を進める。急激に変えると想定外の事態にも対応できない。このイギリス流の生き方が、行列に象徴されているように思える。考えながら時間をかけてゆっくりと進む。物事の成就に手間暇をかけることを厭わない。また、行列は公正さの象徴でもある。ウィンブルドンの主催者が、多大な手間とコストを掛けて、伝統とはいえ行列をこれほどまでに守ろうとするのは、イギリス人が守るべき生き方そのものだからではないかと思う。 ウィンブルドンでの行列の管理が非効率であることを嘆く日本の方もいるが、そもそも効率を求めるのであれば行列など存続していない。他のグランドスラムなど殆どすべてのトーナメントが当日券を廃止してネット販売に切り替えている。また、最前列のコートサイドのチケットが最上段のチケットと同じ値段にはしない。全仏の数十万円の席がウィンブルドンの行列や抽選では1万数千円程度で手に入る。 戦前ケンブリッジに留学した白洲次郎はプリンシプルという言葉を好んで使った。譲れない原則、信念とでも訳せばよいのだろうか。ウィンブルドンのバロット(抽選)、キュー(行列)、同一価格の原則はまさにプリンシプルなのであろう。テニス観戦が、お金のある人だけでなく、庶民でも楽しめるようにするのがバロットとキューだが、これを維持してこそのウィンブルドンという信念なのだろう。 1922年の新聞にウィンブルドン観戦の行列が2000人を超えたとの記事がある。この100年間に行列は、緩やかではあるが変化してきている。古い時代は分からないが、20年前には行列は売り場前の歩道から二手に分かれてできていた。今ではウィンブルドンパークで快適なキャンプができるようになった。振り返ってみると、少しずつ改善されてきている点が多い。2018年になって変わった点もいくつかある。今頃になってと驚かれるかも知れないがクレジットカードが使えるようになった、ウィンブルドンパークを出たあたりからWifiが使えるようになった、給水所が増設された(猛暑で効果は薄いが)、など。一度にシステムを変えることはしない「歩きながら考える」イギリスの流儀なのである。 |